上原は高校時代、控えのピッチャーだった。
その後、教師になろうと大阪体育大学を受験するも、不合格。
受験浪人中は勉強とアルバイトとトレーニングでしんどい時間を過ごした。
この19歳の苦しい時を忘れないために背番号を19にした。
そこからワールドシリーズ優勝にまでなるのだから大出世だ。
落合は高校時代、入退部を繰り返した。
東洋大学進学後も体育会のノリが肌に合わず、すぐさま退学。
そしてプロボウラーの試験を受けるほどの変わった経歴だ。
その後、東芝府中を経て、ロッテのドラフト3位指名を受け、
プロになった時、既に25歳。
そこから3度の三冠王、巨人時代に日本一、中日監督としても日本一と輝かしい。
野村は貧困の暮らしの中、弱小野球部に所属し、京都予選では早々に敗退するようなチームにいた。
貧乏脱出のために歌手になろうとも考えたと言う。
ということは、その境遇がなければ一攫千金の野球の世界を目指そうとは思わなかったかもしれない。
中流の家庭ならば、現実的な道を歩み、進学を、とか就職を、と考えたかもしれないから。
そして南海のテストを受けるが、遠投で規定の距離に届かず、困っているとスタートラインを担当していた
2軍選手が前へ行け、と言ってくれて、合格ラインを突破したそうだ。
入団してからも1年目シーズンオフに戦力外を告げられるが、南海電車に飛び込んで自殺するという
脅しともとれる交渉でなんとかクビを免れた。
弱小の高校でスカウトの目にもとまらない無名選手、テストも本来合格ラインに達していない、
極めつけは戦力外を告げられてさえいる。
そんな選手が打撃記録で通算2位というものが多いほどの球史に残る大選手になった。
野球史上最高のサクセスストーリーと言えるかもしれない。
野茂は史上最多8球団の1位指名を受ける程のピッチャーだが、高校は強豪ではない公立校を選択している。
強豪校のセレクションに落ちたからのようだ。
高校時代にプロのスカウトからマークされてはいたようだが、社会人へと進む。
そこから一気に全国区のピッチャーになっていった。
近鉄の顔であったにもかかわらず、複数年契約を拒否されるという処遇は今ではあり得ないだろう。
NO1ピッチャーの方から複数年を申し出ているのに、球団が拒否するのだから。
この球団とのトラブルで任意引退選手となり、海外へと飛び出した。
高校選択時代は強豪校のセレクションに落とされ、プロでは球界のエースになりながら
球団に嫌われるという、不遇な野球人生と言えよう。
ところが、これが野茂には吉と出る。
MLBを目指す選手のパイオニアとなり、2度のノーヒットノーランやドクターKとして
日本人に勇気を与えた。
野茂の名前は英語ではHERO。そう、英雄だ。
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