野球に「誤審」は決して存在しない!ビデオ判定に思う、審判の権威とは。
審判は人間だから、ミスジャッジも起こる。
これは最初から誰しもわかってやっていることなのだ。
審判の平均寿命は一般の男性より短いそうだ。
また、審判はローテーションで一塁塁審→二塁塁審
最後に(最初に?)球審となるそうで、
三塁塁審は次に球審になり、三塁塁審の試合後は、
一番気を使う球審を次に控えることになるので、神経質になっているそうだ。
そのため、三塁塁審は飲みに誘わないという話を聞いたことがある。
また、
日本の審判の優秀さは国際試合に行ったとき痛感すると言う。
海外の審判のジャッジのレベルに比べたら、はるかに高いということ。
だから
研鑽をつみ、精神の苦痛を伴う審判に、ミスジャッジの罪はないのだ。
問題になるのはミスする人間がプレーのジャッジをしなければいけないシステムであり、
それしかできないスポーツの限界なのだ。
これゆえ、審判の尊厳や存在感という発想が生まれる。
システム化できるならば極力システム化し、審判の存在を消す事の方が理想だ。
選手やチームはひとつのプレーで勝敗が決まる。
人生が左右されると言ってもいい。
この記事は
「味気なくなる」
と結んでいるが、判定に味気などいらない。
瞬間、瞬間に賭ける選手の立場でいえば正確な判定だけが求められる。
再生ビデオや機械によるところを増やせと言っているのではなく
ミスジャッジが起こりうることをなくせる努力はすべきで、
人間が審判する以上、永遠になくならないと言えるのだ。