今年、打者に専念する大谷はどんなプレーを見せるのか、とても興味深いシーズンだ。
先日のホームランは打ち損ないだった。
ボールの下をたたいた打球は一気に高く上がって行った。
外野フライの角度のはずが、異次元の打撃力でホームランにしてしまう。
外野フライであるはずの打球が落ちた先はフェンスの向こう。
打者にとって最高の結果、ホームランとなった。
打ち損ないが最高の結果になってしまう。
栗山がかつて言っていた「中距離打者が少年野球のグラウンドで打っている感じ」はまさに的を射ている。
これをホームランと言えるのか。
大谷にとっては、これはホームランではない。
ホームランは対戦している両チームの誰にとっても同じ距離を越えればいいとされる。
誰にでも同じ距離が平等なのか。
打者にはそれぞれ持ちうる飛距離があり、快心の打球がホームランになる選手もいれば
大谷のように打ち損じがホームランの選手もいる。
飛距離は体の性能が決める。
わかりやすいのは体自体が大きいということだが、そのほかにもぎゅっと詰まっていたり、
ある部分の筋力が発達していたりする選手も遠くへ飛ばす。
王や落合が典型だ。
そういった体を持つことも才能だから、選手皆、同じ距離がホームランというのも平等だ。
一方で柔道やボクシングは階級制を採用している。
ヘビー級の世界ランカーでない選手と軽量級の世界チャンピオンではヘビー級の選手が強い。
対戦したら負けるのに、世界チャンピオンとしての誉れとお金を手に入れる。
これも平等とされている。
これに倣えば、選手の能力によってホームランの距離を変えるのも平等ということになる。
どちらも平等とは言えることになる。
だが、今からホームランを打者によって変えるとしても、ボクシングの階級を撤廃するにしても、
反対の声の方が多くなるだろう。
反対の声が多くなる、つまり現行制度に異論が出ない理由は、どちらにも共通している信条があるから。
それは競技性だ。
それは興味ということ。
人が熱狂するよう競技性をもってつくることを大前提としている。
命を懸ける人、熱狂する人を誕生させる大それた遊びだから。