いじめや不登校、しつけ、暴力など専門外の解決能力まで押し付けられてきた教師の負担を軽減する取り組みだそうだ。
もともと教師になる際、求められていないのに現場に出たとたん、これらの仕事を押し付けられてきた。
教職免許は学校で課される勉強を教える能力の試験で、それを通過した人に資格が与えられているはず。
それを、30も40もいる個性のまとめあげまで求めてもそれは無理だと何度もこの場で言ってきた。
教師がいじめを解決する責任はない上、無理なのだ。
教職は聖職だからやってあたりまえと押し付けられ文句も言えないでいた。
だからモンスターペアレントなる輩まで出現する。
教育の根本は家庭にあるのに。
いじめは親の責任だ。
現行の学校は知識の量を与えるに過ぎない。
教育機関ではない。
この場でずっと言ってきた。わかりきっていることだ。
この取組が吉と出るかは、深く知らないが、教師の負担に、やっと注目されたのは前進だ。
昔のある学園ドラマで高田純二扮する教師が「教師はやることが多い。そのくせ給料は少ない。割に合わない仕事」と言っていたのが今でも印象深い。
小さかった私でもこのセリフが印象に残っているくらいなのだから、当時から私もそう思っていたのか。
古くから教師には負担が大きかったのだ。
ドラマの影響もあろう。
熱中時代や金八先生、教師びんびん、GTO、その他の教師ものでもいつも問題を解決し、生徒をあらためてきた。
そんな先生が教師のあこがれとなり、教師と生徒の絆が描かれる。これが理想と埋め込まれてしまった。
そんなスーパーマンみたいなことできない。
教師も人間だ。
一人で一クラス30人以上の個性を育てあげるなど無理な注文だ。
学校の役割は子供に多彩な人格に触れる機会が与えられることと思う。
これは友達をつくるということではない。多彩な人格に触れ、カルチャーショックを受けることだ。
それから
自然の理の基礎(国語、算数、科学)を知り、興味をもって知の欲求のきっかけとなることと思う。
体育やダンス、は学校という箱には不必要。
音楽も一様に聴かす必要はなかろう。