白鵬がまさかの4敗、照ノ富士の優勝で幕を閉じた夏場所。
序盤の負けで、今場所での大関昇進がなくなったと思われた照ノ富士もその実力からして
すでに他の大関陣を上回っており順当な昇進となった。
白鵬は以前の審判部への提言に端を発したマスコミ、協会への不満を払拭しておらず、
険悪な雰囲気がつづいているようだった。
この件に関して本質をずらした横綱批判の波に“ものいい”をしてみせた過去のコラムは
そんな不満が鬱積している白鵬が豪栄道の首投げに屈した一番。
テレビ中継を観ていた私は
「首投げが決まったか?」「いや、豪栄道の体が落ちるのも微妙だぞ」
と一人つぶやいた。
しかし、ものいいさえつかず、軍配通り豪栄道が勝ち名乗りを受ける。
横綱は納得いかないままの表情だったが、スローで見ると白鵬のひじが先についていた。
これを実をもって確認していたということになる。
まったくもってこの、「ものいい」という仕組みは見事だ。
客もテレビ前の人間も、実況席の人間もどちらか判断がつかない一瞬の出来事を四方からのプロが真に判定を下すのだ。
これを野球にも取り入れることがよい。
世俗は録画スローの結果で正否を判断する。
現実には、わからないことも再生画で起こっていることは神と信じ、これによる情報を堂々と真実として語り、人の人生まで決めつける。
一瞬は取り戻せないから、もう一度判断を下さなければならない事については再現機に頼るのだ。
その必要がない、「ものいい」の制度は考えられる最高の仕組みだ。
ここまでやっての判定ならたとえ間違いがあってもそれが結論となる。
相撲は、行司という審判とそれとは別に、四方にプロの目を光らせる。
「ものいい」は四方のプロの目と再現機の両方を駆使する。
野球ではチャレンジ制度が取り入れられているが、
これは録画でチェックしての再判定で、ナンセンスだ。
四方のプロの目をもってして判断する仕組みの方が圧倒的に瀟洒で洗練された様式だ。
さらに、生身の人間一人に責任を持たせる現行の様式はさらにナンセンスだ。
白鵬についての話にするはずが、ルールの話、「ものいい」の話になってしまった。
来週にしよう。