日本シリーズ第7戦、ヤクルトが得点圏にランナーを置いて川端を代打に送った。
信頼できる代打とは言え、先発・宮城に対して左打者の代打は確率が低い。
したがいこの時点で成功確率は低い戦略なのだが、それ以上に左対左や心理戦を超越した
野球の仕組みが勝負を支配してしまった。
この打席、川端は一球もバットを振らなかった。
左ピッチャーの球なので見極めは、右ピッチャーに対するよりは難しくなる。
しかし、ボールと判断した球を少なくとも2球はストライクとされてしまった。
ボールと判断したというより、ボール球をストライクにされたということだ。
つまり、日本シリーズという大勝負で審判にその結果を支配された象徴の場面ということだ。
川端の打席が支配されただけにとどまらない。
それはゲームの勝敗を審判に支配され、したがい優勝の歓喜を支配され、
それにより野球に関わる人たちの感情を支配され、ついには涙を操作されることになる。
この場面は象徴であるだけで他にもたくさんあるだろう。
リクエスト制度が出来たことで判定に納得できるプレーが多くなったので大分、審判支配のシーンは減りはした。
審判に支配されているとはいえ、審判の責任ではない。
審判も肩入れして判定しているわけではない。
正しいと思って判断している。
つまり仕組みの責任なのだ。
一人の一瞬の判断にその後の行方を全て任せるという仕組みの責任だ。
ゆくゆくは間違いを起こすことが過去から未来までわかりきっている人間の判断は排除されるだろう。
だからと言って機械が正しいというわけではない。
判定に大事なのは正確であることだが、その正確であると判断するのも人間の目か
テクノロジーの答えだから、判定に一番大事なのは戦うチーム、当事者、観る者、関わる人たちの納得なのだ。