以前、中身のない歌謡曲のような校歌を甲子園で耳にする、ということを記した。
歌謡曲は売れた歌は継がれるものの、売れなかった歌は忘れられていくからいいが、
校歌は時代が変わっても歌い継がれていくものなのに、そんな校歌を強要させられる
生徒は不幸だ。
その学校や地域の特徴をうたい、その環境で育まれたということを歌い、だからこそ
自分という人間が形成され、だからこそあの仲間たちが集った。
故郷や仲間、先生、先輩を一瞬で思い出し、思い出で深い感動をいつも胸を刺すのが校歌。
情景を思い起こし、景色を絵として思い描くことができる。
どこの学校でも当てはまるような、どこの学校にも当てはまらないような、きれいで
実態のない言葉を並べた校歌に感動は生まれない。
何の真実味もないから。
校歌はその学校を特徴づける、その校風を決定づける内容がいい。
そのためにあると言えよう。
きれいなことばだけ並べるのなら校歌にして語り継ぐ必要がない。
勝手に口ずさんどけばいい。
校歌だから意味がある、校歌にしか使えない、といったことばこそがそこに生きた生徒たちに
染みる。
校歌はそこの生徒に最も響くものであればいいのに、愛だの夢だの恥ずかしくて高らかに歌えない。