昨日は、センスの異なる選手で構成されるチームはプレーの連携がうまくいかない例を記した。
ハイセンスの選手はついて来られない選手にストレスを受けるもの。
2024-2-19 俺のセンスについて来い ハイセンス9人によるゲーム展開
センスというのは動きを見たり、考え方を知ったりということで、推測できるものだが、
はっきり数値でわかったりするものではない。
だから、周囲の者や判断する者の主観とも言える。
あいつのセンスは高いなあ、と人が言ったとしても、その言っている人自体のレベルが低ければ、
その主観は当を得ることがなく、センスある人からすれば、何言ってんの、
あの程度はハイセンスとは言わないよ、ということになる。
人によってセンスのあるなし、といった選手評価はバラバラになる。
そして当然、自分への評価も適当にはなり得ない。
ハイセンス選手のストレスは理解されないし、ハイセンス選手の描く試合運びを
周囲が理解してくれないので、勝てる試合を落とすことになり、ハイセンス選手はイライラしてくる。
ハイセンス選手は絶対音感のようなもの、と理解できる。
絶対音感というのは今や特殊能力として周知されており、実際、存在することを目撃しているし、
その能力の発揮に凡人は驚かされ、敬意をもって感心させられる。
身近な例では絵心や工作好きも、人によって得手不得手や好き好きがあり、絵がうまい人の
感覚は下手な人のそれには理解できなく、近づくことができない。
数学好きの人もそうでない人からすると理解がし難い。
おもしろい、と言われておもしろさがあるのは何となくわかるし、実際それが世の中の
利益になっているし、自然を解明するためには大事なものと理解できるが、好きでない者にとっては
問題を解くという行為は苦しみしかない。
このようないわば天性と思わされる能力がそれぞれあることは周知であるにもかかわらず
野球センス、ということになると特殊能力として理解されていない。
ハイセンス選手のプレーや発言は凡人には理解できないから、それを疑わず受け入れることだ。
凡人が批判したところで及ばない。