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水曜連載、判定についての総括4回目。
野球に限らず、高校スポーツで負けるほど人生で悲しいことはない。
特別な瞬間だ。
悲惨な目にあったり悲惨を目にしたり、人生には悲しいことは沢山あるが
高校スポーツで終わりを告げられることは未熟な精神の高校生にとって膝から崩れ落ち、
しばらく立ち上がれないほどの虚脱や悔しさが襲って来て、その瞬間は絶望を味わう。
それほどのものである勝敗を審判の判定に支配されては無念だ。
理不尽も人生とは言え人為なものは改良すべきで、間違った判定、幅を持たせた判定は考えたい。
高校野球の判定の酷さには毎度、そりゃねえだろとうんざりさせられる。
余計な御託はなしに、正確のみがいい。
お金をかけてプロの審判でいいほどだ。
高校野球ファンから徴収したらいい。
高校野球ファンはそのためのお金を払うよ。
プロの審判だって高校野球が発展したら見返りがある。
情けは人のためにならずだ。
高校野球精神に反するとかはもういい。守るべき伝統はそこじゃない。
あまりにひどい判定にシラケているのだから。
一回戦で負けることはこれも人生、と教訓になる。
一回戦で敗れ去る姿を見ていると、今までの青春があっという間に終わってしまうことに
気の毒でかわいそうに感じるが、それも人生の教訓と思える。
判定による敗戦はそれも人生とは割り切れない。
人生にも他力による不合理を受け入れる瞬間は多々あるものの
教育の一環として、これを教訓せよとは認識違いだ。
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