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水曜連載の5回目。
今日は、以前にも記した内容を振り返っておく。
それは、サッカーの判定についておきた出来事について述べた記事を取り上げたものだ。
この場で繰り返し記していたことを代弁しているかのような内容だった。
結論を除いては。
それはこの記事。
「シュートがゴールラインを越えたかどうかのトラブルは、審判団のミスというより、制度上の欠陥から起きることの方が多いと思っている。」
とこの記事。
野球も同様であり、生身の人間1人に一瞬の判断を託し、
その決断に責任をもたせる現行の審判制度は仕組みに問題あり。
とこの場で何度も言ってきた。
「菊池のスーパーシュートがもたらしたケースがまさにそうで”人間には無理”なことまで審判に押しつけるから起きてしまう。」
とこの記事。
そういうことだ。
「それを人為的なミスというのなら、問題を広くとらえて、試合を運営、管理する側の問題と考えた方がいいようにも思う。」
とある。
よくわかっているじゃないか。
「制度上の欠陥を知りながら放置し続ける者たちの責任。」
そのとおりだ。
まったくもってこの場で言ってきたことを代弁しているかのようだ。
とここまでは、すごくいいことを言っており、そのとおりでこの場で記したことを引用していると
思わされる内容なのだが、結論を間違ってしまっている。
「機械導入がすぐにむりなら4人目、5人目の副審をおけば、今より良くなる。それでも誤審は紛れ込んでしまう。何もしないよりは全然良い。」
と結論づけてしまっているこの記事。
違う。
副審を4人も5人もおいての判定に誤審はない。
それを誤審と言うなら、言っている側の勝手な主観だ。
4人目、5人目のプロの目で判定を下したのなら、それでいいのだ。
それが、判定だ。
相撲のものいいのような仕組みであり、この場で推奨してきたことそのものだ。
4人、5人の審判をフィールド外、あるいは副審として違う角度から見える場所に配置し、
そこで正確なジャッジを統合判断する。
1人が出した判定について取り消したり、覆したりすることは恥ではない。
そうすべきなのだ。1度の判定を神のごとくとらえ、それを押し通すことが正しい姿勢とされてきたが、
その認識を改めればいい。
しかし、この記事はあくまで機械での判定を是として
それができない間は4,5人のプロの目での判定の方がまだましと言ってしまっている。
逆だ。
機械で判定するしかできないのを避け、4,5人のプロの目の方がいい。
機械が神ととらえる発想は間違いだ。
ものいい制度がいいのだ。
プロがそれだけ集まり、落ち着いて出した判定はそれで納得いく。
相撲の、ものいいは機械に頼っているようだが。
これが機械で確認したものと違っていたら
それは、
機械が間違えた、あるいは機械で見るとそう見えるだけということだ。
チャレンジ制度ができ、判定が覆ることが繰り返されることとなった現代の野球。
そんな制度を作っているということは、審判は間違えるということを認めているんだ。
もっともっと
1人の判定に任せる現行ルールを見直す動きが活性しなければならない。
最善はないが、改善していく必要がある。
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