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斎藤の引退は早すぎた 斎藤殿堂入り

昨日は、斎藤の殿堂入りの出来事を取り上げた。

 

「殿堂入りに9年かかった斎藤雅樹」

 

 

斎藤は、大エースだった。

 

大投手である斎藤を伝説的な投手として取り上げられる機会が少ない気がするので

最近の若い人は知らない人も多いことだろう。

 

斎藤が投げれば、まず負けることがない。

負けるどころか1点取られることすら珍しいというほどのピッチャーだった。

 

11連続完投勝利は今でも日本記録だそうだ。

あの時も斎藤なら達成して当然の雰囲気だった。

 

投手分業が進み、先発ピッチャーの役目がローテーションを守ることに重点がおかれ、

肩と肘への負担に敏感になった近年の野球ではこの記録を更新するのは、難しく、

斎藤の名は永久に称えられる可能性が高くなった。

 

数年前、田中が負けなしのシーズンを送ったが、

安定度では、全盛期の斎藤の方に分がある印象をもつ。

 

斎藤がエースの時代は、斎藤、槙原、桑田が3本柱として君臨していた。

3人とも高卒ドラフト1位だ。

 

槙原は斎藤よりひとつ年上で昭和38年生まれ。

槙原がルーキーの頃は、50番トリオと呼ばれていた。

 

次代を担う背番号50番台のホープ3人、

37年生まれ背番号50駒田、38年生まれ54槙原、38年生まれ55吉村が、こう呼ばれていたのだ。

 

槙原の方が、斎藤より早く出世したと記憶している。

 

斎藤は、球が速いもののコントロールが悪いことから横投げに転向して活路を見出した。

 

槙原は、剛速球で売出し、デビューから数年後には、巨人のエースとなった。

 

斎藤の安定感よりも槙原の安定感が先に、世に出たと記憶している。

槙原も点を全然取られないのだ。

 

広島・大野といつも投げ合い、互いに点をとられないという試合を何試合も演じていた。

 

度重なる怪我で槙原にかげりが見え、その後、斎藤が台頭した。

 

この時の槙原の印象が強烈で、私は日本のベストプレーヤーとして先発ローテーションの一角は、

槙原を推したい。

 

斎藤は、200勝目前でまだまだやれたと思うのにあっさり引退を決めた。

 

その時は本当にもったいないと思ったものだ。

絶対、移籍すれば複数の球団が獲りに行くのにと思った。

 

その時、どのような事情があったかは、知らないが、早い決断には、驚いたと同時に

かっこよさも感じた。

 

一時代をなした名プレーヤーは、引退の美しさを大事にしたい。

 

今週は、このプロの引き際について述べていこう。

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