日ハムの大谷に対する功績は打ってもいいよ、投げてもいいよ、ということを提案したことではなく、
日本でやってからにしな、と提案したことにあると見る。
大谷の兼任が生まれたのは、大谷自身が海外志望だったことから、それを覆すための産物なのだ。
最初から大谷が日本でやるつもりだったら恐らくこの構想は生まれていない。
日本プロ野球を志望していたら日ハムの一本釣りにはならなかったから他球団に
入団した可能性は十分ある。
というより、数球団の内の日ハムは1球団に過ぎないから他球団に行っていた可能性の方が高い。
とすると、日ハム以外の球団に兼任という発想はなかったろうからピッチャーとしての野球人生だった。
そもそも大谷にも両方やるという考えはなかったから、すんなりそうなっただろう。
日ハムだって兼任というのはウルトラCだった。
大谷は高卒で海外へ渡る気持ちに大きく傾いていた。
日ハム交渉権獲得後も面会を拒否している時もあるくらいだった。
それはピッチャーとして世界最高峰のリーグでプレーすることを希望していたものと思われる。
そこで日ハムががんばったことが球界にも大谷にも結果、良かったものと思われる。
もちろん指名したのは、チームの戦力としてこの逸材を獲得できれば大きく、これだけの
逸材なら断られる公算が大きくとも獲りに行く価値はあると判断したことからだろう。
しかし、同時にこれだけの逸材をいきなり海外へ渡してしまい、向こうの商品とはさせない、
という意地といきなり最高峰の弱肉強食世界へいくより、日本で実力を溜めて、我が球団で大事に育って
からの方がいいという考えもあったはずだ。
次回へつづく。
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