今年のセンバツはかつての姿が戻った、とされる。
3年前、センバツが中止となった時に記した2020年3月19日のコラムを見直してみる。
この自粛に向いた流れの中で、断行するのはかなりの信念がいる。
事が起きれば、ほらみろ、ということになり、やらなければ何も起きないから。
清廉とは何もしないことだ。
会見では
充分な練習と試合が出来ていないのでケガの心配もある、
断腸の思い、
申し訳ない、
としていたが、余計な文言だ。
言い訳と体裁にしか聞こえない。
ケガの心配などスポーツの宿命だし、やっている人間は覚悟の上で取り組んでいる。
金属バットを振り回し、硬球を投げる野球はその時点で危険なスポーツだ。
断腸の思いがあり、申し訳ない、と言うならやればいいじゃない。
断腸の思いはやりたいけどできない状況があるということなのだから、高野連のせいじゃない。
申し訳ないと謝る必要はない。
今回出場するはずだったチームには何らかの救済措置を求める声がある。
人は元々あるものには無思慮に受け入れ、疑問に感じない、あるいは矛盾に気が付かないものだ。
また、新しくできるものは受け入れ難く、拒否しがちだ。
そして、今回のようなイレギュラーに対しては、これに直接ダメージを受ける者を慮る。
そもそも甲子園大会が2回なのはなぜ?
そもそも出場校が限定されるのはなぜ?
高校野球を経験した者のほとんどが甲子園の地を踏めない。
トーナメント以外ではできない?
選手を集められる私立と地域限定の公立が同じトーナメント?
野球に情熱を燃やす、と決断して高校を選んだ選手たちは大変気の毒だ。
絶望に目の前が真っ暗、という人もいるだろう。
励ましは気休めにもならないが、この不運も野球や人生にプラスに働くことに期待するしかない。