まだつづける。
大谷が5度目の登板をし、中8日、中7日、中6日、中6日となっている。
一方、野手としては守りを回避し、DHとしての起用にとどめ登板日以外で2日、使うといった感じ。
中途半端な起用だ。
これくらいが限界なのだ。
それでも、何度も足をつっている。
しかし、ローテーションの間隔は狭まっており、投手中心に起用していくことになることは明らかだ。
したがい、DH起用はさらに制限されることになる。
今季はローテーションの中心として中6日で回すことになるのかと思いきや
開幕投手のあと中8日置いた。
しかし、ここへ来て、6日で回すようになってきたのだ。
大谷の打者としての能力は全開できないわけだ。
打者としての起用にもこだわるようだと投手としての能力も全開できなくなることになる。
この場で兼用は大谷の可能性を狭める、そんなものに夢などないと言い続けてきたことが
本当に夢のある起用にシフトすることになってきた。
チームも大谷もそろそろいいだろうと気づいてきた。
大谷の兼用は無理という人には古い考えで常識にとらわれており、非難されることが多く
逆に、兼用賛成にはやってみなはれという精神が奨励されてきた。
しかし、無理なものに対しては挑戦とは言わない。
無謀というのだ。
「俺は空を飛べると思うんだ」
「やってみなはれ」
屋上から飛べると信じてみたが落ちて死ぬことになる。
やってみることが取り返しがつかないのだ。
「原子力の廃棄物を宇宙へ捨てることが得策だ」
「やってみなはれ」
途中で爆発して拡散したらもう取り返しがつかないのだ。
大谷兼任も打者としてけがしたら取り返しがつかない。
デッドボールが宿命の打者が右肩や右ひじ、手首や指にぶつけられたら取り返しがつかない。
20歳くらいの今、もっとも成長が見込めるときに兼任などにうつつをぬかしていると
大事な時期を失い、見込めた可能性を失うことになり、 取り返しがつかない。