一昨日、浦添商が逆転しながらも、雨天コールドで敗退したことを取り上げた。
浦添商ナインは試合終了しても、試合再開を信じキャッチボールや円陣をつづけ、
客席も応援をつづけたそうだ。
しかし、ルールはルール。現実は変えられない。
変えるとするなら、これを受けてルールの見直しを図るとか、この先の運営でしかない。
すると、浦添商の監督は、「人、物、高野連に当たるな」という主旨を選手に伝えたそうだ。
これに対して、反響が大きく、立派とのことだそうだ。
たしかに、ルールで決められていることなのでこれは受け入れなければならない。
当たるということは醜い行為であり、慎むことが求められよう。これも人生だ。
しかし、今まで2年半、このために青春を燃やしてきた選手たちは、これを受け入れるのは酷だ。
やりきれない。逆転して、リードしている状況で負け。と言われるのだから。
これが、リードされている状況ならあきらめもつくだろうが。
そして、監督の発言に「高野連」ということばが出てきているということは、
高野連に文句がある。と言っているようなもの。
選手の中には高野連のことなど頭になかったかもしれない。
そこを、監督に気付かされて、「そっか、高野連がいけないのか。」
と感じる選手もいるかもしれない。
監督は、高野連に文句が言いたいに違いない。
そして、「当たるな」は、わかるとしても、多くの人が無情ととらえていることにたいして
黙っていることが立派で美談かね。
いかにも日本らしいものの捉え方だ。
黙っていることがいい時もある。
しかし、ここは、黙っている時ではない。
高校生が言えないなら、まわりが騒いで、問題提起し、改善すべきかそのままいくべきかを議論すべき。
高校野球は、こういうことが起きても、常に変わらずここまできた。
「教育の一環」のもと、不条理を受け入れさせ、黙ってがんばることこそ高校生のあるべき姿と
押し付けてきた。
そんな不条理が認められ、問題が起こって是正せずにいても、変わらず人気を保ち、
高校野球をここまで日本の文化にしたのは、
100年に渡り紡いできた高校球児達の真剣なまなざしのおかげに尽きる。
高野連や親、ファンはそれにちょっと手を貸しただけで、多くの楽しみを頂戴してきた。
教育とか言いながら、高校球児に人生を教わってきた。
教育されてきたのは、高校球児ではない。大人の方だ。
高校野球は、いつも主役は高校球児だ。