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判定の間違いは必ず起きる。人間だから必ず間違える。
どんなに修練、鍛錬をして熟達しようと間違える、見間違えるとも言える。
判定をすべき一瞬にゴミが目の前を横切ったら、適正な判定はできないだろう。
熟達しても、加齢とともに判断力が鈍ってくるだろう。
‟闘将”星野が亡くなったことで審判へ体当たりしたり、激しく抗議しているシーンが連日、映像で流れて
その野球人生にスポットを当てている。
選手とともに監督が、その判定で審判を貶めるような態度は間違っている。
審判は、正確な判定をして当たり前という仕組みになっているので、多勢に無勢、一気に非を受ける。
そして、野球ファンもそこへ加勢していくことになる。
だから、最近の監督、特に栗山は判定に納得行かないときは文句を言うのではなく、
説明を求めるかのように審判へ近づく。納得いかない、ファンにこのまま続けることを見せられないから
というかのようだ。この態度が正しい。
問題なのは、生身の人間一人が判定し、その判定に責任を持たなければいけない仕組みだ。
だが、この仕組みが変わらない現状ならば、審判をやろうという人間は、それをも受け入れているということになる。
それならば、間違えたら反省してもう二度と間違えない努力をしなければいけない。
もしくは、間違えを犯す人間だと自分で自覚してその場から去らなければならない。
高校野球では、判定の間違いだらけでも抗議が許されない。
そして、幅を持った判定をきっと高野連が進言している。
異を唱える人はいないものなのだろうか。
そういう人は、排除される組織なのだろうか。
審判は黒子であり、主役でなく、選手のために判定してあげる存在だ。
判定には情や雰囲気によるものなど必要ない、正確のみ是。
つづく。
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