甲子園に出てくる高校の校歌が、歌謡曲のようとか、POP調とか、
アニメソングのようとか、言われるものが増えかなり様変わりをした。
多くが、作詞家が書いているようだ。
つまり、普段は売れるための詞を要請される立場の人が書いているということになるのだろう。
希望、夢、未来、涙、君、感謝そういうことばが何の脈絡もなく飛び出す。
その前文まで、そんなことを唱っていなかったのにいきなり、
こういった、きれいで大衆受けされるであろうことばが飛び出してくる。
そういうことばをつないだ詞は、校歌でありながら、
その高校の存在意義とか教育方針とかと全く関係ない。
別にその高校じゃなくても、どの学校の歌にしてもいいもになってしまう。
と、思いきや最後に高校の名前を連呼し、学ぶだの、我らのだの、はばたくだの言い出す。
校歌は、その高校ならではの詞が当てはまるのがいい。
すると、必然的に郷土を思い起こすことばが入ってくることになろう。
そうすることで、そこで学んだ生徒たちに共鳴が生まれ、
それが同窓生の普遍の価値観となっていこう。
そのための校歌と思われる。
夢だの愛だの実態がはっきりわからないもの、主観によっては必要ないものを混ぜ、
きれいな言葉としてつなぎ合わせても一過性の賛美にしかならないように思える。
したがい、校歌になりえないということになる。
難しいことば、意味のわからないことば、日常では使わないことばは、
それだけで深みを与える。
その組み合わせ、表現の仕方、で感情の揺れ幅は大きく変わることになり、
ここで、そのタイミングで、その言葉の後にそれを使ってこそ、
その表現でしかできないというのが詩であり、心に響くというのがある。
奥床しさを発揮し、また洗練さを持ち合わせる。
愛だとか感謝だとか夢とかを使われても、そういう深い部分の琴線に触れることがない。
抒情ともいうものか。
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