これだけ毎年毎年、いわば同じことが繰り返されているのに人の心を掴んで離さないのは、共感だ。
彼らが青春を賭してきた時間を共感できる。
自分たちにもそんな時代があった、と。
そしてスポーツというのは失敗することの方がはるかに多い。
打っても思う通りに行くことは稀、投げても思った通りには中々いかない。
思い通りの速い球を獲得するのに苦労がいる。
遠くに飛ばすのも、捕るのも、そして一度のミスが試合を決める。
決した試合は取り戻せない。
ひと夏に人生が凝縮されている。
悔しさ、寂しさを共感できるから選手の涙がコチラにも沁みる。
わかる、わかるぞ、と。
高校野球は異議を唱えることは醜いこと、受け入れることこそ潔いとされがちだ。
ひと試合に何度もある酷い判定に勝負の行方を左右され、それまでの費やしてきた多くの時間を
無駄にさせられる。
高校時代という貴重な青春時代を野球に賭けている選手たちは、人生を賭けているとも言える。
それが審判の一瞬の判断で左右される。
それを受け入れることが潔いことか。
理不尽に従順なことが潔いことか。
もう二度と戻らない貴重な高校生の青春の時期を野球に多くの時間を費やしている。
腹の出た普段何をやっているのかわからない、歳をとって一瞬の判断が鈍くなっている人達が下す判断に
青春の行方を支配される。
審判だって間違えたかな、と思うことは多々あるはずだ。
間違いは責めない。間違うものだ。
ただ、そこへ向かう姿勢とそれを許す仕組みだ。
そんな理不尽が通用するのは日本だけだろう。
それを潔いと勘違いする。
黙っていることが潔いのか。
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