高校野球は審判がいなくなった方が野球技術の進展にはいいだろう。
それは高野連の方針が変わった方がいいということでもある。
高校野球は技術の向上や厳格な勝負を目的としていないから、1試合に何度もある酷い判定もそのままで
反省することなく、進めてきている。
勝負で見ればいなくなった方がいいのだが、教育だから不条理を受け入れさせる。
間違えた判定を改めるならいてもいいが、抗議も許さなければ、覆ることもない。
プロでさえ間違えることを認め、リクエスト制度ができたのに、それに劣る力量の審判の判定が
間違えないわけがないのに、選手たちのそれまで費やした時間や労力を無にしても教育の一環をいいことに
無視してきた。
審判に試合の行方を左右される。
審判は黒子であるはずなのにフィクサーになってしまっている。
要するに勝負を度外視した態度ということだ。
たった一人の判定に頼らず、複数の目で判定したらいい。
ということは一瞬ではなく時間をかけて判断したらいいということだ。
あるいは機械を導入したプロのように、映像やコンピュータを駆使してもいい。
2年数か月の青春が一瞬の判断で水泡に帰す。
審判だって確信があるわけではない。
振り返れば違ったかもと思って当然だ。
人間だもの。人間だから間違えるのだ。それも一瞬の判断を100%正確になど、
絶対無理なのは万人がわかっている。
判定はゆっくり、協議して出して問題ない。
明日へ。
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