野球が始まって以来、球審はキャッチャーの後ろに立ち、各ベースに一人の塁審で判定する、
と決まってきたのだろう。
もう、間違いに気づいていい。
機械の判定を受け入れたのだから、もう、一人の一瞬の判断に委ねなくていい、と気づいてしかるべき。
審判の威厳とは一瞬で出した判断を以降も貫く、ということと間違えて捉えてきた。
判定に対して、どうしてそうなったか、をしっかり説明できることを威厳と言う。
それは協議して、時には時間をかけ、時には訂正することがあってよく、それが
どうしてそうなったかを説明できることを言う。
抗議や文句に対して、協議、時間、訂正があれば説明でき、そこには毅然と対応できるだろう。
一瞬で出した判定をいつまでも譲らない、というのでは人格に対する疑問につながる。
間違いかもしれないことを一切受け入れず、違う見方を排除するのは人格に欠陥があると見ることができる。
そこはリクエストという形で一歩譲歩したのだから、さらに先を見据えられるはずだ。
それも案外あっという間に譲歩し、迅速に受け入れた。
これまでの意固地がうそのようだ。
それでも威厳とは遥かに遠いものはまだ残る。
威厳の誤解は人格そのものの疑問となるのに。