一昨日、昨日と戦いをテーマにしている。
過去の寄稿をまた振り返ろう。
2014年5月20日の寄稿より。
先日、藤浪が大阪桐蔭の先輩平田にぶつけたという
ニュースがあった。
平田は後輩・藤浪をにらみ、一喝した。
平田は藤浪に怒り、憎しみを現したということではなく
また、平田の先輩としての度量がないというわけでもなく
一瞬、身の危険に対する反抗心が頭に血を昇らせたという
ところだったはず。
打者はぶつけられたときは、相手がだれであろうと
一瞬血が上るもの。
穏やかな性格の人間でも野球をしていれば興奮状態にある。
そこで予期していない身の危険に対しては怒りが発生するのだ。
これは、
人間の本能であるわけだから悪いものでも抑えるべきものでもなく、
むしろ抑え込もうとするとプレーに影響が出る。
勝負に勝つための闘争心がそうさせるということだ。
そもそも、謝る必要はあるのか。という見方もできる。
謝るということはピッチャーに非があるということになる。
日本では、ぶつけた場合、
ピッチャーは帽子をとって謝ることが一般的であり、
少年野球から高校野球にいたる過程でもそう教えられてきた。
しかし、野球発祥のアメリカではぶつけて謝るなんて文化はない。
日本の国柄そのものの道徳と文化、常識がちがうからとも言えるが、
アメリカではコントロールミスによる死球、故意ではない死球は
真剣勝負の中で起きたこととで謝ることではないという考えのようだ。
もともと謝るとかへりくだるという考えが美徳ではないという
考えがあるのだろう。
桑田はぶつけても謝らないピッチャーだったようだ。
その理由は
「ピッチャーが受けるバッターの打球は160㌔以上で向かってくる。
デッドボールも野球のひとつ。おあいこだから。」
ということだそうだ。
ちょっとよく分からない理屈だ。
打者にはバッターボックスが与えられている。
その中ならどこにいてもいいし移動も自由だ。
ピッチャーがベース盤に触れるように投げ込もうとしているのに
その近くに立とうとするのは、ぶつけられてもいいという覚悟がある
という見方もできなくはない。
自らぶつかりたがっているとも見えなくもない。
ピッチャーからしてみればバッターボックスという広いスペースが
与えられているのだから
その中で離れて立てばぶつからないじゃないか。と言え、
離れて立っても打てる技術をもつようになればいいじゃないか
と言うこともできる。
(かなりの高等技術が必要であり、勝負として成立しなくなるが。)
そしてピッチャーにはぶつけた場合、塁をひとつ奪われるという罰も
用意されている。
(体に硬球が当たって塁が一つじゃ割にあわないというバッターからの見方もある。)
また、ピッチャーはベース盤に触れるように投げろ(ストライクを投げろ)
というルールはない。
ベース盤を外れて投げてはいけない(ボール球を投げてはいけない)
というルールもない。
ベース盤から外れればボールと判定されるという罰も用意されている。
こうやって見ていくとデッドボールはピッチャーの非ではないとしか言えず、
謝るべきものととらえることはもはやルール不備と矛盾としか
言えなくなってくる。。。