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思い出甲子園Ⅲ

私の思い出甲子園。先週に続き3回目。

 

前回はPL学園がセンセーショナルに登場した1983年の夏。

 

夏・春・夏の三季連続優勝という離れ業を狙う王者・池田に

主役交代を告げるため1年生エース・桑田と1年生4番・清原ののちのK・Kコンビが

いつの時代もスターを作り出してきた甲子園という脚本が見事なドラマを用意していた。

 

池田高校が主役に昇りつめたとき、

スター荒木を擁し、5季連続出場の早稲田実業を完膚なきまでに叩き潰したように

主役交代は新たな別の来歴のあるスターによりその座をとってかわり、ドラマとなっていくことになる。

 

私は小学生の時、常勝だった池田高校を応援していた。

 

PL学園が池田高校とぶつかった準決勝。

PLの評価は高くなく、池田高校有利の下馬評だったように思う。

 

なんといってもプロ注目のエース・水野がいるわけだからこの下馬評も当然だ。

 

しかしやまびこ打線のお株を奪う豪打で水野を粉砕。

桑田は1年生ながら水野からホームランまで打った。

1年生4番打者清原は3三振だったような。

 

池田高校を応援していた私は、こんな知らない人に打ちこまれ、抑えられていくことにショックを受けた。

 

終盤7点差がついたときはルールのどっかに点が減る方法がないかとまで

期待するほど祈るような思いだった。

 

しかし、7-0の完封で池田の3連覇を阻み、

それ以降私は、勝ってもガッツポーズをしない、負けても泣かない桑田の

ファンになり、PLを応援していくことになる。

節操がないな。

 

この時、桑田は15歳。

4月1日生まれの桑田はあと一日遅く生まれていたらもう一学年下だった。

 

いわば中学生といってもいい桑田が全国の舞台で王者・池田を完封。

 

桑田はこの大会背番号11だった。

エース番号ではなかったのだ。

 

先輩ピッチャーに配慮したのかもしれない。

 

池田戦に先発することが決まっていた桑田は

先輩に

「二桁はとられるなよ。10点もとられたら大阪の恥やぞ」

と言われたそう。

 

10点取られるどころか見事な完封劇。

 

身長が低い桑田はバネがすばらしい。

 

打っても走っても守っても

身体能力の高さと運動神経の良さで、

プロでも野手以上のプレーを見せてきた。

 

桑田が晩年、海外で投げたとき、

対戦したイチローは、ファーストベースカバーに走る桑田が、

途中から1塁線に沿って走り、打者走者と交錯しないようファーストからの送球を受けている姿を見て、

「こっちでは見ないプレーだ」と語り、

桑田の野球センス、身体能力を暗に称賛する言葉を口にしている。

 

他にもイチローの桑田への言葉には敬意が込められているように感じる。

 

桑田の身体能力の高さを示すエピソードとして

甲子園のホームラン数6本という歴代2位の記録をもっている。

 

それから、入学当初は体の小ささからピッチャーではなく、外野手で練習させられていたが、

返球の鋭さを見たコーチがすぐさまピッチャーに切り替えたと聞いた覚えがある。

 

そしてプロ入り後、広島戦でカープのエース・北別府から

北別府の得意のスライダーをセンターオーバーにホームランする。

 

これに驚いたキャッチャー・達川はそれ以降、桑田に対し

「お前には野手と同じ攻めをさせてもらう。悪いがインコースも投げるよ。」

と伝えたそうだ。

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