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阪神大震災のあった年、オリックスが優勝し、イチローが初めて日本シリーズへ登場した。
200安打を突破し、彗星のごとく世間にスーパースター誕生を告げた翌年の1995年のことだった。
がんばろうkobeを袖に縫い付け、そのプレッシャーとともに戦った結果だった。
シリーズの相手は野村監督率いるヤクルト。
野村、古田といったヤクルトの頭脳は、このシリーズはとにかくイチローだということで、
その対策に注力した。
イチローの打席にスコアラーを行かせた。帰ってきたら、その報告はわかりませんだと言う。
そんなわけないだろ。それじゃ勝てないじゃねえか。もう一回行って来い。
帰ってきたら、わかりません。弱点がありません。という報告だ。
こりゃささやきだ。野村得意のというか自慢の戦法を駆使することとした。
シリーズ前からマスコミを通じ、イチロー封じの作戦を吹聴する。
その内容は内を攻めるというものだった。
ヤクルトにはブロス、石井、山部という球の速いピッチャーがいた。
特に、左の石井、山部の速い球は左打者のイチローが対応するのは難しくなってくる。
当時、振り子打法だったイチローは、三遊間に転がった打球を内野安打にしてしまう。
外へ攻めていくと左ピッチャーに合わせただけの打球がヒットになる可能性が出てくる。
そこで、インハイへ空振りあるいは、フライを打たせる作戦で攻めていった。
シリーズに入り、行けるとこまでその攻めで行こうとインコースを有効に使う。
三振やフライアウトが多かった。イチローも吹聴によりインコース攻めを意識した。
ところが、インコースを見せ球に、実は外を有効に使った。
1,2戦を神戸でヤクルトが勝ち、優位に進められたことで
イチローへの攻めも幅をもたせることができた。3戦目もヤクルトが勝ち一気に王手となった。
ヤクルトの3勝1敗で迎えた第5戦、イチローを封じていたヤクルトが、ホームランを打たれた。
だが、結果的には時すでに遅しとなり、イチローが目覚める前にヤクルトが日本一となった。
シリーズの後、このイチロー対策がとても話題になり、今でも語り継がれている。
第5戦でホームランを打たれ、もう少し長引いてればやられていただろうというヤクルト陣営だった。
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