野球選手にサインを求める心境はどのようなものか。
キャンプではよく、即席サイン会の様子を目にするし、
街中では、道で立ちながらサインに応じる野球関係者をたまに目にする。
お店は分かる。
当店にはこんな有名人が来たことがありますよ、
あんな高給取りが好んでいる店なのですよ、といったPRになったり、
箔がついたりするから。
アメリカはサインをもらう文化だが、子供はサインをもらったらすぐ喜んで
走って行ってしまう。
サインをもらうということはその人のファンのはず。
だったら、そばにずっといた方がいいだろう。
子供の場合は親から、ほら、もらってきな、とかダシに使われることがあるからなのだろうが、
もらった途端、本人よりサインボールに目をやっている。
サインをもらうという行為はただの旧弊なのだろう。
そうすることがいいという思い込みに思える。
そうすることとは皆がサインをもらっているからうれしいことなのだという思い込み。
また、無意識にも高値がつくことへの打算だ。
つまりサインをお願いするとは、お金をねだるということも潜在していることになる。
サインもらってうれしいものなのだろうか。
本当に憧れの人のものなら欲しいと思うだろうが、だれかれでも有名人なら欲しい、
という感覚にはならない。
握手なら誰でもしてみたいけど。
サインをもらうとは時間を拘束したということだろう。
一生のうち自分と彼の時間が確実に存在した証になる。
サインより手形がいいけど汚すわけに行かないし、そんな道具も持ち歩けない。
物をもらうのは気が引けるし、その場にあるかわからないし、
物は使うから持っているわけだから断られやすいし。
そこでサインとなったのだろう。
本当に憧れの人なら声をかけるのも恐縮しそうなものだ。
遠くから眺めているのが精いっぱいだし、そうしていたい。
一度、オリンピックメダリストとの会話機会があり、その時メダルをかけていい
、
と言われたことがあるが、恐れ多いとやめておいた。
メダルはその人の栄光だから部外者の人間が首にかけることは遠慮した。
周りの人はかけて写真を撮っていた。
いつぞやはどこぞの市長が金メダルをかじるという傲岸不遜に驚かされた。


