以前から全員に平等の練習を課し、
ベンチに入らない人間も含めてやる野球という意味で使っている場合の全員野球は、
やり方としてこれでは強くならないと言っている続編だ。
前回は東海大学柔道部を例にとった。
今度は身近な社会を引き合いに出してみよう。
我々の社会は資本主義とよばれる仕組みをとっている。
我々は生きるために食べ、寝、活動し、娯楽をする。
すべて自分でまかなえれば
お金を稼ぐことを目的とする仕事などしない。
自給し、家を建て、暖冷を生み出し、
外部から身を守り、楽しみを見いだせれば
お金を得るために仕事をする必要がないわけ。
しかし、自分でできないため
自分にない能力を他人に補ってもらうのだ。
そして自分でも自分の力が発揮できる分野で仕事をし、
それぞれの人たちがお互いに人を支え合い、社会を構築していくことになる。
社会の不足するピースをそれぞれが埋めることで社会が発展していく。
社会に多くの需要があるものを生み出せる人が
多くの富を有することが許されている社会が、全体にとっても裕福になり
将来に渡っても発展が見込めるとされており
そのため資本主義が人間の社会を成り立たせるには良いとされ、
この仕組みが用いられていると考えられる。
つまり社会自体も全員プレーでできているということだ。
社会では能力に秀でている人(野球ではレギュラー)が
多くの富を有する(野球では常に試合に出る)
仕組み(野球ではチーム)が
発展をするとされており、長く採用されている。
野球という勝負が大前提とされている分野においては
さらにこのような一見、偏りともとれるほど個々の役割をはっきりさせ、
それぞれの個性を生かしていくことが、チーム力を上げ、全体のレベルを上げ、
そこに存在する人々(選手)の喜びにつながるものと考えられる。
それはレギュラーでない者にも相応の役割があるということ。