智辯同士の初決勝はレベルの高い戦いだった。
フィールドにいるお互いの9人がまさに高校野球の頂点にいる選手同士の戦いといった感があった。
ただ、ここまでの疲労が全員にあるので最高のチーム同士の戦いも最高レベルの試合ではなかったと思われる。
教育の一環を建前としている高校野球。
教育の一環とは、一環であるのだから本筋は人間育成にあるわけだ。
高校野球は学問をないがしろにした野球専心チームが甲子園に出場し、これらのチームこそが
高校野球であるとの認識を一般化させている。
野球を本分とする高校生が存在し、彼らは野球において精神や肉体を鍛える。
そして日本は高校野球がプロの下部組織となっている。
プロを養成するには高校野球に頼っているという現状。
そしてさらに言えば、そうなるべく推進させたのは甲子園文化が大きくなり過ぎたから。
大きくなり過ぎた甲子園文化にメスを入れる別の組織や文化が生まれにくくなったため
高校野球に人や金が集まり、プロ養成機関としてそこに予算を割く学校が認めら
れたことになった。
学校としては野球ビジネスとなり、投資の喚起となるから、環境を整える。
さすれば選手だって、プロを目標に野球に専心できる高校を選ぶという動機になっていく。
高校の部活動として、教育の一環として、健全な肉体を育むべく奨励されたはずの高校野球が
現状は逸脱し、教育であるはずの学校が知名度をあげるべく全国から野球ができる選手を集めるという構図。
ドラフト制度をつくったプロの方が均等を保とうとする動きがある
ほどだ。
教育の一環として健全な肉体を育むためにある部活動の高校野球がその通り肉体を育むとしても、
それが精神に影響し、学問推進に必ずしも役立つとは限らない。
むしろ、その効果が見て取れるのはほんの一握りに思われる。
野球を通してチームという集団の方向を一にするとか、
運動により心と体と脳に良い循環をもたらすとかいった効果を実感することはあり、
それは人生においてとても意義のあることとして教育の一環と言えるだろう。
反面、野球に偏重する人材を生むことにもなる。
ある高校野球の有名選手がプロの指名を蹴り、社会人野球に入団して来ると、
社会常識0だという話を聞く。
良い選手ほど、野球に偏重の幼少期、青年期を過ごしてしまい、それしか知らないということになるのだ。
明日へ続く。
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