昨日からのつづきとなる。
教育の一環として健全な肉体を育むためにある部活動の高校野球がその通り肉体を育むとしても、
それが精神に影響し、学問推進に必ずしも役立つとは限らない。
むしろ、その効果が見て取れるのはほんの一握りに思われる。
スポーツによりチームにより方向を一にするとか、
運動により心と体と脳に良い循環をもたらすとかいった効果を実感することはあり、
それは人生においてとても意義のあることとして教育の一環と言えるだろう。
それ故、顧みず良いものとして偏重に傾きがちで、そのことの方に重心が移ってしまい、
野球に偏重する人材を生むことにもなる。
ある高校野球の有名選手がプロの指名を蹴り、社会人野球に入団して来ると、
社会常識0だという話を聞く。
良い選手ほど、野球に偏重の幼少期、青年期を過ごしてしまい、それしか知らないということになる。
勝ち上がっていく自チームに過熱する応援団は相手のミスや、意気消沈を願う。
競技がそう作られているのだからそう願うのは何ら問題ない。
ただ、それを教育の一環に取り入れていることから、相手の不都合を喜ぶことが
それにそぐうことか疑問がわくのもあり得よう。
過熱する応援の中にいる学校の先生も、自チームのナイスプレーや勝利に諸手を
挙げて喜ぶ。ただ、そこには、そこで敗れて行き、傷つき、人生に影響を必ず与えられた
うなだれる敗者がいる。それを尻目に教育者が喜んでいる姿には、これが正義なのか
と率直な疑問がわく。
それをノーサイドなどという都合の良い言い方で言い訳にし、糊塗する。
そして、どちらも一生懸命にやることはできても、どちらでも最高の成果を出すことはできない。
どっちかのためにどっちかを利用するにとどまる。
つまり、文武両道はあり得ないということだ。
野球で最高の成果を出したイチローと松井も学力が高かったが、野球での
素質を伸ばすため、野球名門校へ進み、野球に専心した。
両者とも両立は無理と断言している。当然だ。
教育の一環をはるかに逸脱し、野球ビジネスと化し、感動創設機関とまでになった高校野球は、
その肥大化により、その高校野球界の属するあらゆる組織の常識をも肥大化させた。
そして、組織を優先し、暴力に代表される部内軋轢は引きも切らさない。
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