たった一人の一瞬の判断が覆ることのない世界。
法治国家が無視される空間が高校野球。
正義よりも空間内の疑問だらけの変わることのない規律に従う。
木曜連載4回目。
2023-8-17 糾弾、解体、呆れ、それでも存続し続ける高校スポーツ界の勝負
2023-8-24 判定は100%正確で当たり前の世界 褒められない
2023-8-31 高校生の高度なプレーに審判がついていけない
審判はルールを全部把握することと、アウト、ストライク、フェア、といった瞬時の判断が可能か、
ということの二つの能力により資格が付与される。
だが、この二つの能力というのは別のものだ。
一旦、どちらも合格ラインにあったとしても、どちらも維持できるわけではない。
ルールを把握していることと、瞬時の判断を間違わないことは別と言える。
ルールの把握は覚えてしまえば、抜けてしまうということは少ない。
たとえ加齢とともに忘れることがあったとしても、野球のルール程度のことの多くが抜けてしまう
ということはないし、たとえ抜けてしまっても、他の審判との協議によって試合中でも確認することができる。
そして、徐々に忘れていると思えば、そこで退場すればいい。
対して、一瞬の判断である判定は衰えが著しい。
しかも、判定というのはちょっとの差を見分けなければいけない。
数ミリ、ボール半個分、などという表現を使うくらい肉眼では人によって見方が変わってしまうほど。
今夏の仙台育英VS浦和学院では、初回、一死二、三塁からファーストゴロをはじいて
そのままカメラマン席へ飛び込みボールデッドとなった。
これに最初、主審は得点は1、二塁ランナーを三塁に戻して、二、三塁で次へ進もうとした。
審判は一瞬の判定の正誤ではなく、ゆっくりでいいのだから、ここはわかっているべきところが
裏からの指示が入り、三塁へ戻したランナーを生還させ得点は2、とした。
この場面、審判はルールも把握していなかったということができる。
たとえ審判能力が欠如していたと言えるこのケースでもゆっくりやり直すことができるプレーの場合は
誰かほかの助言でルールに従って、コールすればいい。
ところが一瞬の判断は間違えることが多いのにやり直すことはしない。
瞬時の判断は審判として現場に立っている人より審判資格のない者の方が優れている可能性がある。
審判資格はないけど長年野球に携わり、精通したセンスの高い人間の方がアウト、セーフ、
ストライク、ボールの判定の正しい確率が高い可能性は大いにある。
政治家が人格と政策は別、ということに似ている。
女や金に奔放でも先見性や頭脳、大局観は別であり、社会に幸福をもたらせてくれるのならそれでいい。
そして、いつまでも同じ考えに固執せず、時代の移ろいとともに方向を再考しなければいけない。
審判も政治家も今の置かれている状況によって変わらなければいけないということだ。