11年のドラフトで、巨人を切望していた菅野は、
不義理の日ハムが交渉権を獲得したことで、拒否し、1浪した。
プロの殿様気取りが一人の若者の可能性を狭めておきながら、
翌年、日ハムは一転「1年間のブランクがあることを考えたら、一番力のある投手じゃない」とした。
菅野の身内には人権蹂躙とまで言っていた人もいるくらいだった。
日ハムは大谷指名の際は、栗山をうまく使い、誠意をみせていた。
江川や元木や福留も人生を遠回りさせた。
実力がある選手ほど、行きたいチームに引いてもらえる確率が減り、
その実力をファンに提供できなくなるという側面をドラフトはもつ。
野球界にとってもファンにとっても本来、不幸なことだ。
それにもかかわらず、どうなっていたか証明できないことをいいことに、
または気づかないまま、それさえもアクシデントやスキャンダルとして
楽しむのがドラフトだ。
甲子園が終わって以来、何か月も話題になって、そのたびに何球団競合か、通用するか、二刀流か、
2桁勝てる、20本行ける、外野が薄い、ピッチャーが欲しい、などと
運命のドラフト会議とまで言っておきながら、1年経ったあと、そのことに触れることはない。
触れたとしても扱いは微風の如く、些細なものだ。
彼らのことはもう忘れる。
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