今年、不遇な立場となった高校球児の変わらない情熱について記した。
2020-8-11 どんな状況になろうと高校野球の情熱は負けない
今年の高校生は不遇な立場となってしまったが、そうでないいつもの年でも高校野球をやる選手が
全て、甲子園を夢見、憧れているというのは早計だ。
甲子園に出たいというのは比喩の事が多い。
一様に、甲子園を夢の舞台としてだけ捉えようとするのは、マスコミや主催者、ファンの見方であり、
それから多くの出版物やテレビ、映画の影響によるイメージだ。
高校野球を志すにいたった理由として、幾多の名選手、幾多の名勝負と同じ舞台である甲子園でやりたいということはある。
動機であり、憧れではある。
しかし、一度足を踏み入れた高校野球の世界では、甲子園出場を目標として念頭にはあるものの、
毎日の練習や試合を繰り返していくと、目先は、勝ちたいということの方へ移るものなのだ。
敗けたくないという気持ちだ。
これまで積み上げてきた俺達の力で相手に勝ちたいということ。
その先の結果として甲子園があるということになる。
だから、甲子園出場というのは比喩であり、第一の目標、目的は勝つということ。
負けたくないということ。
こんな感情の中、さらに芽生えるのは義務感、野球を終えた後のステップ、
あと何日で終えられる、などと複雑な感情にも至る。
昨年の夏、佐々木が決勝戦温存で高校野球の捉え方に一石を投じた。
決勝まで来て、甲子園出場を目の前にすれば、それは勝ちたい。
その中で、それまで甲子園を目指してきた周りの選手たちを無視した采配という感想を耳にした。
しかし、佐々木程の逸材の体を慮れば、周りの選手たちも納得していたかもしれないし、
チームとして話し合った結論かもしれない。
あんな采配あり得ない、甲子園を目の前にした選手が納得するか、とまくし立てる人も目にしたが、
選手の感情は一様ではない。さまざま。
ある野球名門校の選手からは、こんなに野球ばっかりやっていていいのかなと、
自分のしている現状に疑いを持ち、将来への不安を口にすることを聞いたことがある。
別の野球名門校の選手は、入部する頃は大きな夢を抱いていたものの長くレギュラーとして活躍しつつ、
早く終わんないかなという解放を渇望する口癖を聞いた。
ただ、試合になってしまえば、闘争本能、負けたくない気持ち、楽しい、が沸き起こり一生懸命やる。
とりあえず、やるだけやって結果が出てから考えよ、という気持ちにもなる。
そして、負けて泣くのは、早く終わってほしかったけど、本当に終わってしまった。
終わってほしかったけど本当に終わると寂しい。
敗けた悔しさ、むかつきは募る、終わってしまうとまどいが複雑な感情を操作させる。
思春期の高校生の感情は複雑に変化し、起伏に揺れるものなのだ。
誰彼も甲子園を夢見、目標としているわけでもないのだ。
所詮、高校生の部活動。
部活動での目標を定めること、方向を決定するのは彼らにある。
だから、外部の人間にはどうのこうの言う資格も権利もないのだ。
アマチュアである彼らの活動に夏になった途端、口を挟む権利を得たかのようになるのは、
高校野球がプロ養成機関であり、感動創造機関だという意識があるからだ。
学校での部活動にいちいちうるさいよ、俺達の勝手でしょ、入ってこないで、と思って当然なのだ。
甲子園だってマスコミとファンがつくりあげた虚像の巨像と言える。
もちろんその伝統に憧れて高校野球をやる、甲子園を目指す、という選手は多いわけだが、
感動創造機関でも熱血涙汗機関でもない。
活動の仕方は学校と部によるのだ。
そして、名選手が、ここで野球を終えてもいい、ぶっ壊れてもいい、という感情になるのは一時の事で、
それは貴重な青春の2年数か月を濃厚に過ごした仲間や時間があるからそういう感情になるだけで
冷静に時間が経てば、よかったと思える。
逆に壊れてしまえば後悔に至る可能性の方が大きい。
早まった、若かった、と。
一時の感情だ。
観ている人たちだって一過性の話題であり、大騒ぎした温存を、今、話題にしている人はいなく、
その時が来たら、無責任に、また同じように騒ぎ出すだけ。
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