ある大きな国際戦で先頭打者としてヒットで出た選手が果敢に盗塁を決めた。
勇気ある決断とされたそのプレーをどうして選択したのかその理由。
選手の言によると、
ヒットを含めた出塁の可能性というのは5割を切るもの、つまり、半分以上が失敗に終わる。
だから出塁できないからといちいちその選手を責めることはない。
盗塁の失敗はどうだろう。
場面にもよるが、盗塁失敗を非難されるのは半々くらいといったところか。
エラーはどうだろう。
エラーにも程度があり、あの守備力がある選手だからエラーになった、とか思い切った結果、
エラーとされた、などあるが、公式記録としてEランプがついたら、それは一般には
何やっているんだ、とされるだろう。つまりは非難の対象だ。
このように野球のプレーには成功確率の高低が広く認識されている。
先頭打者でアウトになった場合、おそらく何やっているんだ、と非難ゴーゴーとはまずならない。
そこを先頭ヒットで出塁したとなれば、その成果は賞賛の対象だ。
その賞賛の対象となる成果を獲得したのは俺だ、と。
だからこの成果は俺の好きなように使わせてもらう、という心境になった、ということだそうだ。
ここで盗塁失敗したとしても先頭打者として凡打しての一死とそう変わらない。
次打者のカウントを不利にしてしまう、という面があるかもしれないのでまったく一緒というわけではないが、
まあ、ヒットの成果と盗塁の失敗はトントンと言える。
盗塁を警戒させることで、逆に次打者のカウントを有利にするかもしれない。
プレーによって悲喜の大小があり、そこでの成否が印象に大きく残る。
先頭打者が出塁、盗塁成功ともなれば味方ベンチの盛り上がりと相手ベンチの落胆の差は
それは大きなものとなる。
それならばトライしてみる価値は大いにある、ということになる。
攻撃側のプレーの選択などほとんどがギャンブルであり、そして失敗だ。
スコアボードにはどのレベルの野球も0の数字が一番多く記される。
勝負師として勝負事として、トライするべきところはたくさんある。