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最大の敬意を込めてイチロー 再録

大谷が現れるまでの20年間、野球を支えてくれたスーパースターはイチローだ。

今の現役高校野球部員はイチロー全盛期をリアルタイムで知らないこととなってしまった。

 

日本時代の活躍など日本のプロ野球選手の多くが知らないというほど。

時が過ぎるのは早い。

イチローが、まさに彗星のごとく出現した94年。

はじめて私たちにシーズン200安打という観念があることを知らしめた年の試合数は130だった。

 

イチローが、200などという考えもしないヒット数を重ねたことで、

これ以降シーズン最多安打というものがタイトルとして認識されるようになった。

 

それ以降の200安打記録で130試合制で記録されたものはない。

130試合時点で200を記録した選手もいない。

 

だから、安打記録はイチローのものと言っていい。

秋山が216を記録したが、その試合数は143だ。

イチローは130試合で210を記録している。

 

ここで94年が143試合だったらという仮定の話を持ち出すまでもなく、

イチローは大リーグで262安打をして、驚愕の証明をしている。

この時、161試合で262安打。

 

これが、143試合なら232安打。秋山より16本も多いことになる。

262安打を記録したシーズンは162試合制だったので、162としても143試合に換算すると

ここでも231安打となる。

 

そして131試合時点で212安打しており、94シーズンの130試合210安打に酷似しているのだ。

イチローが出現したとき、200安打と4割到達が注目され、

しかも、それまでの名選手の記録を平然と超えていく20歳の若者というセンセーショナルに

皆、衝撃を受けた。

 

打っても守っても走ってもNO.1。

それまでのスターは打つことに秀でていればよかったが、イチローの出現により、

野村克也は「これからは打つだけではスターになれないかもしれない」と言い、

さらに「日本にプロ野球が生まれて60年(90年代中頃当時)。そのうち私は、40年くらいこの世界にいるわけですけど・・・・これだけの選手初めてですね」

 

そして入団一年目、高卒新人として52年ぶりウエスタン首位打者になった年にイチローのプレーを見て

「そのプレーは、光っているなんてものじゃない。すでに後光が差していた」とまでその著書で言い、

「あの子はどこから来たんや。あの子を見つけてきたオリックスのスカウトはボーナスはずむで」

こんな旨、その著書にあった。

 

イチローのプレースタイル。

それまでの野球の常識をことごとく覆してきた。

正面の内野ゴロでもセーフになる俊足と俊足を生かした守備範囲の広さ、

さらに、「補殺」という言葉を魅力あるのものと認識させた後にレーザービームと称される強肩。

 

しかし、イチローの魅力は、抜群の野球センスというのもあるが、なんといっても、バッティング技術だ。

異次元のバッティング技術。

94年、130試合制での最多安打記録をもっていた新井の目の前で記録を更新した。

 

新井はイチローと同じように細身の左打者だった。

タイプが似ているイチローに、当時オリックスの打撃コーチだった新井の存在は大きく影響しているだろう。

 

シーズン200安打を記録している選手は数人いるが、

94年、イチローが登場したときのペースは前述の通りすさまじかった。

 

秋山のペースも結構なスピードだったが、途中息切れしている感があった。

しかし、あの時のイチローは神がかって打ちまくった。

まあ、イチローにいたっては他のシーズンも神がかっていたが。

 

今までの一流プレーヤーから頭ひとつ飛び出したという程度のものでなく、

異次元の生物が突如、脈略なく出現した。

だから、ONを知らず、イチロー出現までの20年程を過ごした世代の人間には

野球観そのものが変わる出来事だった。

 

イチロー登場から30年が経ってもイチローに比肩する選手が現れていないことからも

それは証明されている。

大谷という別のタイプのスターは登場した。

 

長嶋が74年に引退し、その20年後にイチローが200安打を記録し、スーパスター誕生を告げた。

そして、その20年後の94年に大谷が生まれた。

 

20年という、ひとつの区切りでスーパースターは出現するのだろう。

野村の言葉を借りると

日本にプロ野球が生まれて60年初めて現れた選手であったイチロー。

日本にプロ野球が生まれて80年初めて現れた選手が大谷。

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