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ドラフト史上最大の人間ドラマⅢ

つづきだ。

2020-9-16 ドラフト史上最大の人間ドラマ

2020-9-17 ドラフト史上最大の人間ドラマⅡ

1985年、昭和60年のドラフト最大の目玉、清原。

王監督をはじめ現場サイドでは清原指名を公言していた巨人。

しかし当時、球界での地位を築くべくチームの改革を行っていた西武。

 

球界の盟主の座を守りたい巨人はこの西武の勢いを警戒していた。

西武が早大進学を表明していた桑田を強行指名する可能性があると事前に察知するのだ。

清原は各球団が重複しても指名してくるのは明らかだ。

もし清原を西武が抽選で引き当て、桑田も2位で強行指名して一本釣りでもされたら、

最も注目の選手2人を同時に持っていかれ、話題の中心を西武にさらわれてしま
う。

しかも、スター性があり活躍の可能性が高い2人が、ONのような存在になったら

球界の盟主の座すら持っていかれかねない。

 

最悪のシナリオだけは避けたい巨人はリスク回避として清原指名を断念。

ドラフト当日、桑田1位指名に舵をきった。

清原の巨人への憧れ、

桑田の翻意、

同じ学校に2人のスターという希少性、

改革を進めていた西武、

策士・根本の存在、

巨人のプライド、

いろいろな思惑がからみあい、この運命のドラフトが生まれたのだ。

清原の涙は、巨人入団がかなわなかったからというより信じ切っていたものに裏切られた感情からだろう。

 

6球団競合の末、清原を引き当てた西武はまさにチーム改革の時にスター候補が入団したことになった。

西武球団創設時を支えた野村、田渕、土井、山崎といったベテランが去り、

東尾を兄貴とし、石毛、工藤、渡辺、伊東、秋山といった若手が台頭してきた。

これらの若手に広岡の「管理野球」が、奔放を許さず、チームは強くなっていく。

そこへ、清原が入団し、同じタイミングで土井が西武のコーチとして、師匠となる。

土井自身のニックネームだった「18歳の4番打者」の後継者となるには、

これ以上ない素材・清原は、初ヒットがホームラン。

高卒ルーキー本塁打記録と長嶋のルーキー時の本塁打数である29を超え、ルーキー本塁打記録31に並ぶ。

見事に「18歳の4番打者」を実践してみせた。

実際には初の4番に座った時は、19歳になっていたようだが。

 

しかし、これ以降、波の激しい清原の打撃は、毎年のようにスランプの時期が長かったものだ。

ルーキー時の活躍に胡坐をかいたのかもしれない。

その頃の発言にそれを垣間見ることができる。

1年目のオープン戦では結果が出ない清原に
「プロの球は厳しいか」と問われ「慣れれば打てますよ」と返した。

これは、言った通り、結果で示した。

1年目のシーズン終了後、その時のスター・少年隊と対談した際、

「少年隊が紅白に出るのと(レコード大賞獲得だったかな?)僕が三冠王をとるのとどっちが早いか」と発言。

これは、無冠の帝王。

そして、西鉄野武士軍団最後の戦士・東尾に影響され、野球以外の活動に精を出していったと聞く。

野村克也は、清原の没落を森の教育のせい、と森自身に言っていた。

2年目以降、スランプを繰り返し、期待ほどの活躍をしたシーズンはなかったように思う。

それでも2000本以上のヒットを連ね、500本を超えるホームランを記録する。

通算安打数2122、本塁打数525。

つまりヒットの4本に1本はホームランということになる。

 

ドラフトにプロ人生を翻弄された清原。

巨人を倒して日本一になる寸前、守備につきながら涙したこと。

巨人への憧れを捨てきれず、西武に入団してから数年後、巨人のコーチからユニフォームを

「ちょっと、着させてもらえませんか?」と借りて、着てみて、涙したこと。

FA権を獲得し、裏切られたにもかかわらず巨人入団を成就させたこと。

そして引退式において完結するこのドラマ。

それは次回へ。

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