たった一人の一瞬の判断が覆ることのない世界。
法治国家が無視される空間が高校野球。
正義よりも、空間内の疑問だらけの変わることのない規律に従う。
高校野球判定の姿勢、木曜連載8回目。
2023-8-17 糾弾、解体、呆れ、それでも存続し続ける高校スポーツ界の勝負
2023-8-24 判定は100%正確で当たり前の世界 褒められない
2023-8-31 高校生の高度なプレーに審判がついていけない
2023-9-7 審判より球場中の観戦している人間の判定の方が正しいことだらけ
2023-9-21 タイミングと流れでアウトでいい場面 判定は正確と納得
この夏の高校野球で判定について最も話題になったのは神奈川決勝での緒方のプレーのように思われる。
決勝の最終回で起き、その後、逆転となったことで、反響は大きいものだった。
さらに慶応が全国制覇したことでなおさらとなり、このプレーについての取沙汰は再燃した。
このプレーについてのあるスポーツ新聞の記事を取り上げてみる。
「アマチュア野球の審判は、プロの審判を目指してやろうというものではなく、大半の人は野球が好きだから何かの形でかかわりたいという気持ちでやっています。報酬は交通費程度で、必要な道具やシューズなどは自己負担。お金という意味では、アルバイトにもなりません」
こういう論調は今に始まったことでなく、審判に対する好意の見方はここに表れる。
つまり、プロではないから技術に劣るという擁護。
高校野球に関わりたい、という文化と教育への良心の称揚。
お金にもならないことをやってくれている、というボランティアの精神への感謝。
これらがあまりにも過剰なほどの酷い判定をも放置を許した。
「夏は炎天下の中で立ちっぱなしのため、体調を崩すケースも増えています。それに加えて、最近は誤審と思われるものがあれば、ネット上で叩かれる。ただでさえ、(審判が)人手不足になっているのに、こういうことが続けば、審判をやってみようと思う人も減りますよね。選手を守ることはもちろんですが、審判がいなければ試合や大会は成り立たないわけですから、何かしら対策は必要ではないでしょうか」
審判がいなければ試合が成り立たないだろうが、それが今の審判制である必要は全くない。
そして今のままの体制なら不幸が続くことはわかりきっている。
どうして一人の判定を尊重しなければならない?
どうして一人を近くに立たせなければならない?
どうして一瞬の人間の判断を正解とする?
複数の目で判断すればいいじゃないか。そして何度も記しているように協議、訂正を拒否するな。
人間の能力が皆、同じなら近くにいる人の判断が尊重されていい。
それでも、高い能力の持ち主が、一瞬では目にゴミが入ったり、見間違ったりする。
そんな万が一の可能性のことまで言っていては、何もかもが無理になってしまう、とされても、
せめてそれを改善する方向へと進むことが建設的だし、改善を目指すのが人間たらしめる姿。
社会のあらゆる組織の中で高校球界は建設的行動に無知で、膠着を好み、改善、進歩に目を背ける。
それが平気な世界。